チンパンジーのコドモの相互行為
伊藤詞子
財団法人日本モンキーセンター
霊長類学の分野ではコドモからオトナへの変化は、未熟・未完成状態から成熟・完成状態への変化(つまり、進歩)として扱われることが多い。こうした扱いは、身体的なものから社会性に至るまでありとあらゆる領域に適用される。コドモの身体はオトナの身体からみれば「未完成」なのだが、例えば、小さな身体は母親に運搬されるためには必要不可欠なものであり、未完成なものとして捉えることはコドモの理解にはほとんど役に立たない。同様のことが社会性についてもいえるが、そうした視点に立った研究は残念ながらほとんどない(例外として、King 2002)。
本研究では、コドモがどのような相互行為をおこなっているのか、特にパントグラントと呼ばれる音声を中心に検討する。パントグラントは、チンパンジー研究では「優劣関係」を示す指標として使われ、劣位者が優位者にパントグラントをするものであると考えられている。この指標をもとに、オトナのオス間には直線的な順位序列があると想定され、さらに、すべてのメスとコドモはオスより劣位であると一般的には言われる。しかし、実際にはオス間でおこなわれている相互行為と、オス・メス間でおこなわれている相互行為と、コドモ・オトナ間でおこなわれる相互行為は質的に異なるものであることは研究者間では了解されている。ところが、では質的にどのように異なるかということについては、コドモに関しては今のところ暗黙のうちに前述の「未完成な相互行為」として理解されているように思われる。
正確にどれくらいの段階からコドモがパントグラントを発するかはわかっていないが、筆者のこれまでのマハレ山塊国立公園(タンザニア連合共和国)の野生チンパンジーの観察からは、生後かなり間もない段階から発することがあることがわかっている。彼/彼女等が、どのような状況でパントグラントを発するのか、その発声および他者との関係づけがどのように変化していくのか、横断的かつ縦断的に検討する。コドモは孤立して何かしているのではなく、母親を含め周囲のオトナたちが様々な活動をしている豊かな社会環境にさらされ続けている。そうした社会環境を取り去って、孤独の中で言語を習得させようとした過去の実験研究が批判にさらされたことは有名な話である(ファウツ 2000)。したがって、本研究では、周囲の社会環境そのものを含みこんだデーター収集と分析を行う。そして、「コドモ」が変わるのではなく、「社会環境」そのものの変化のプロセスを扱うことで、個体の「未熟→成熟」観から脱却することをねらっている。